映画『ガタカ』 人間の後天的な可能性の一切を否定した世界行く末
- 作品名:ガタカ(Gattaca)
- 上映日:1998年05月02日
- 製作国:アメリカ
- 上映時間:106分
- あらすじ
DNA操作で生まれた”適正者”だけが優遇される近未来”不適正者”として自然出産で生まれた若者が適正者に成りすまして宇宙へ旅立とうとするが・・・。
本作が描く「先天性がすべてを分かつ世界」
見終わったあと、本作の音楽や世界観が織り成す余韻がしばし残るのを、じわーんと感じました。
本作を見ると、「人間が持って生まれたもの(先天的なもの)だけで人生のあらゆる節目が決定されてしまう」という極端な世界を垣間見ることができます。
あらすじをざっくり言えば、遺伝子操作の技術が確立した時代に、遺伝子操作で優秀に生まれた人とそうでない人が区分けされ、職業や生活区域等も区分されてしまうという話です。
この手の類作はほかにもありそうですが、本作は絶妙に余白が残されてるんですよね。ここで言う余白とは、見た人に考えさせる余地です。
印象的なシーン
一見すると、本作が描く世界は「遺伝子が優秀かどうかで人間が選別される世界」が整然と成り立っているように見えます。しかし、
- 良心を持つ人
- 大局観を持つ人
- 先天性ですべてが決まる世界に疑問を持つ人
- 人に対して「先天的なものではなく、後天的に備わった魅力」を感じた人
こうした人々が「この世界での秩序(先天性で全てが決められてしまうこと)に対して黙して抗うことで、努力と熱意(後天性)で遺伝子(先天性)差別にあらがう主人公を助ける」シーンがあります。
このシーンを見て思うのは、「主人公の夢が最終的に実現できた裏には、こうした無名の協力者たちの存在がある」ということです。
つまり、成功やなにかを実現できたならば、あたかも表舞台に立っている自分の努力や才能によるところが大きいと思いがちです(もちろん場合によってそのような一面も大いにあるでしょう)が、一方で無数の協力者や関係者が陰に陽に存在していなければ、成り立たない場合もあるということ。
この当たり前の事実をあらためて感じさせられる映画でした。
これまで私はいわゆる情報発信者といいますか、リアル世界以外にインターネット上で活動し、メディアやマスコミ関係者とも関わる機会がありました。
そのような体験をしていくなかで知り得たことの1つは、「優れた作品には裏方が存在し、その裏方の力量によって、俳優や芸人、著者や情報発信者の魅力の引き出され方が全く変わってくる」ということです。
例として適切かは不明ながら、先般逮捕された東谷(ガーシー)衆議院議員は、供述で「YouTubeのネタを作っていたのは自分ではない」と述べていました。真偽は不明ながら、私たちはそうやって表に立つ人の印象で物事を判断しがちですが、「裏方」がときに存在しうるわけですね。
いずれにしても、表と裏があり、表舞台には役者がいるけれども裏方もいて、そうやって世界が回っていることもあるわけですね。
以上は本作を見て、連想して紡いだ1つの感想ですが、本作は他にもいろんな連想ができて、ブログ記事を何本もかけてしまう、そんな作品かもしれません。
印象的なセリフ
主人公:「帰らないつもりで、全力で泳いだ」
これは「遺伝子的に優秀でないとされた人(主人公)」が、「遺伝子的に優秀な人」に対して、水泳の競争で勝った当時を振り返って放った言葉です。
まさに不退転の決意が先天性を凌駕した瞬間であり、その捨て身の気迫は、三島由紀夫の著作『命売ります』の登場人物「山田羽仁男」に通ずるものがあります。
こうして複数の作品が自分のなかでつながる瞬間というのは、ある種の発見と知的欲求が満たされる感じがあるかもしれません。
まとめ
映画『ガタカ』、連日2回見ちゃいました。
1998年と古い作品ですが、不思議と洗練された音楽と世界観が、その古さを感じさせません。
青年期ならば自分に当てはめ、育児期なら子育てに当てはめ、というかたちで人生のステージによって本作のとらえ方も少しずつ変わっていくように思います。
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傑作です。
主体性に通じるものがある印象的な作品です。
これはず~っと印象に残ってますね。