フィリピンの庶民の生活を聞いて感じたこと
先日フィリピンの友人とはなしていて印象に残ることがありました。
当人は日本国籍を取得し、日本で生活をしています。
日本に来た理由
日本に来た理由の1つに、「今の生活を続けるなんてまっぴらごめんだ」と10代の頃に感じたからだそうです。
フィリピン人のとある1日
- 早朝、父が魚を市場へ買いに行く
- 早朝、子どもたちは通学前に分担して、豚や鶏の餌やり、豚舎の掃除、畑の作物を収穫、鶏糞などを活用して畑の肥料を自作(…★)など
※私の言う豚舎ではなく、ほんとうの豚舎 - 父が買って帰った来た魚を、子供たちが自分で調理し、弁当を作る
- 母は家事。★などを日中こなすし、くたくた
たしかにたいへんですね…。
「今の状況から脱却したい」という強烈な原動力
「勉強できないといつまでもこの生活が続くから必死に勉強した」のだそうです。
つまり、あまりにいやで、だからこそ必死に勉強して、欧米への留学を勝ち取り、人生を切り開いたと。
太字部分、これはまさに原動力ですよね。
「将来この生活を続けるのはあまりにいやだった」という強烈な負の感情があったからこそ勉強をがんばれたと。
やっぱりそうした「渇き」が人生の強烈な原動力になるんだなぁとあらためて感じました。
弊ブログで何度か言及している事象ですね。
現代でもフィリピン人の生活はあまり変わっていない
実家は今でも以下のような生活だそうです。
- 冷蔵庫がないから今日買ったものを今日食べる
(停電ばかりで冷蔵庫を買っても食材が腐る) - ガスもないから、炭で焚く
つまり買いだめはできず、料理をするたびに炭から焚く必要があると。日々の家事全般において、なにかと時間がかかるわけですね。
日本のように便利な都市生活を送れる地域は、首都マニラのごく一部の都心にかぎられ、少し郊外に行くと昔ながらの生活なのだとか。
まとめ
やはり「渇望」は、人生の原動力になりますね。
極論、「渇き」がなければ「潤い」を探しに行く必要もないし、がんばらなくてもいい。
ただ、今でもその人は努力家です。
渇望という原体験が根底にあるのかもしれません。
私自身も、人生の早い段階で経済と時間の自由に興味を持ったのは、渇きがあった面も大きいと思うので、大いに共感したのであります。
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