FIREに対する日本の社会的関心の高まりを感じる
私がこのブログを開設した2016年頃は、米国株は非常にニッチな領域であり、ましてや「資産運用で経済的自由を達成して自由を獲得する(いわゆる今の言葉でいうFIRE)」運動は、傍流も傍流。とても主流とは言えませんでした。
だからこそ、その概念を非常に積極的に発信していたものです。
その傍流だった状況が、昨今、大きく変わりつつあることを肌で感じます。
取材依頼の数が、媒体の種類を問わず激増
最近、各社メディアからの取材依頼が増えており、FIREに対する熱の高まりを感じます。
特に今年に入ってからでしょうか。
2019年にFIREを達成し、2020年は書籍発売・メディア掲載などを通じていわば種がまかれ、今年に入って一斉に萌芽を迎えたかのようです。
金融機関・テレビ・ラジオ・雑誌・新聞など打診を受ける媒体の種類も多様化し、件数も非常に増えました。
ポリシー・時間等の都合上、すべてお受けできるわけではないのですが、それでも適切な発信となるよう最大限努めたいと思います。
それが従前より唱えてきた旗手の責務でもあると(勝手に)考えています。
正確性を期する
また、日本版FIREの根幹となる部分については、真意が伝わるよう正確性を期したいと思っています。
FIREに対する社会的な熱の高まりというのは、おそらく一過性のものではないと考えています。市場が低迷しようとも手を変え品を変え、自由を獲得するという精神運動は続くでしょう。成熟・高度化した一部の国においては。
なぜなら、以下記事にも詳述の通り、背景に「価値観および社会的な変容」が挙げられるからです。
現代日本は明らかに社会的な過渡期でもあり、FIREのような精神運動が注目されるのは、ある意味で自然です。
基本的に「多様性をもって貴(たっと)し」とするスタイルですが、一方で総花的になってしまうと正確性に欠けやすいのも事実と思います。ここは原理主義とバランスを取らなければいけないところです。
精神運動・美学は、商業主義に伏してはならない
そして、私には自分なりの美学というものがあります。ちゃらんぽらんにFIREを商業主義に片寄せして皮相的に述べるつもりはありません。
そういう匂いは、人は敏感に察知するものです。美学が商業主義に伏すことは避けたいと考えています。
高潔性は、子々孫々と一部受け継いでいると考えています(勝手に)。
ブームが商業主義化するのも、過去にみられてきたことです。特定の対象がたとえ本来的には精神運動であっても、それが商業主義化すると論点がズレるのは過去にも散見されました。
私は自らの信念に基づいて、ポリシーを引き続き堅持してまいりたいと思います。
いずれにしても、社会目線を常に心にとどめておきたいと思います。そのためであれば、フィールドを広げることは、やはり考えています。それが閉塞性・硬直性に一石を投じることになり、社会的意義があるのであれば。
Best wishes to everyone.
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