人にどう見られるかで意思決定をしない
「そういえば、人にどう見られるかで意思決定をしないなぁ」と思う出来事がありました。
最近古くからの友人と会いました。まじめで実直ながらもよく冗談を飛ばし、いつもボケとツッコミをやり合う仲の親友と呼べる一人です。世間でいう超一流企業に勤めるサラリーマンで、年収は2,000万円近いです。
そんな彼は、脱毛することにしたそうです。理由を聞くと、「ほら、電車とかですね毛とか生えてたらどんなふうに思われるかわからんやん?」といった趣旨でした。
解釈が正しいかはわかりませんが、人にどう見られているかで意思決定をしているようにも見え、自分にはおよそない新鮮な感覚でした。しかしこの「人にどう見られるかを気にする」という行動様式こそが、いわゆるサラリーマン的思考というか、集団主義的な思考なのかもしれません。
念のため申し添えますと、本記事の内容は、よいか悪いかという観点ではなく、単純に思考や発想の差異を述べているだけです。
私の場合、すね毛が生えていることでたとえ他人にどう思われようが「あ、すね毛が生えている人間ですが、何か(笑)」といった塩梅で、周囲との調和を保つように努めつつ自身の行動様式や主義を大切にします。
彼は「人にどう見られるかという意味で、ファッションもそうやん?」とも言っていました。たしかに格調高い正式な場では、礼節としての衣装を整えることは必要だと思います。
ただ日常的なファッションに関しては、「他人からどう見られるか」で衣服を選ぶことはないなぁと思いました。以前は代官山でブランドもので身を固めていた時期もありますが、以降は「半袖短パン」といった機能性と心地よさを追求したインバウンド外国人スタイル。
ブログや書籍で述べてきた通り、これもブランドものと機能性重視の服という「両端を知った」ことで、自分の心地よい塩梅が見つかり、自然と継続している格好です。
なお、私の友人は考えや価値観はさまざまです。たとえ異なっていても互いに「変わっとるなぁ~笑」とおもしろがる、そうやってずっと仲良く互いに認め合ってきた、そんな友人ばかりです。かけがえのない財産だと思います。
なので本記事の内容も批評めいたものではなく、単純に両者の差異や気づきを述べているだけであることを念のため申し添えておきます。
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