性愛について考えさせられる良書『キリストと性-西洋美術の想像力と多様性』

FIREしてからというもの、今まであまり読んでこなかったような縁遠い書籍を読むようにしています。
今回はこちら。
読後感
ある意味で、度肝を抜かれ続ける1冊です。
文明化社会というものは、ひとつの閉鎖空間なのかもしれません。そう思わせるほど、中世の絵画や図像には、すべてが解き放たれ、変幻自在の想像力を働かせた人々の産物が数多く垣間見えます。
- 美術を見る際にひとつの視点が加わる
― 宗教的色彩、想像力の豊かさ、倒錯的な世界観 - 中性に至る人々の生活様式と性愛、実に旺盛で変幻自在な想像力
- 聖なるものは、性的なものへの連想を排除しない
- 「秩序とはなにか」「文明とはなにか」「性愛とはなにか」を考えさせられる
本書の出発点
キリスト教は性に対して保守的で厳格だと言われる一方で、宗派を問わず教会内部で性犯罪や性暴力がはびこってきたことも知られている。
中性からルネサンス期に目を向けると、キリスト教は性をめぐって、わたしたちが思っているよりもはるかに多様で豊かな想像力を育んできたのではないか、そうした見通しのもとで小著は書き進められる。
このことが最も顕著に表れているのが「西洋美術」だそうで、西洋美術とは最も私から縁遠いもののひとつです。そこで本書を興味深く読み進めてみました。
印象深い記述を適宜引用しつつ、所感を加えるかたちで以下にまとめたいと思います。
イエスとヨハネの同性愛

イエスと弟子ヨハネは、さまざまな絵画において、その頭部がイエスの胸の前に置かれているなどの造作から、キリストとの愛が暗示されている、と本書は指摘します。
四福音書のひとつ『ヨハネによる福音書』でも、「イエスの愛しておられた弟子」というヨハネを指すに疑念のない言い回しもあったりと、とにかく同性愛を連想させるに足る材料が多くあると。
まず初っ端から、「キリストといえば性に厳格なイメージがあると思いますが、実は中世はおおらかな一面がみられますよ」といったメッセージを受け取ることができます。
新婦から新郎を奪い取ったイエス

ドミニカ会の修道士であったドメニコ・カヴァルカ(1270頃-1342)が隠者たちの伝記を集めたその著『教父伝』に収録された比較的長い「マグダラのマリア伝」の冒頭によると、
「たいそう美男でやさしいこの聖ヨハネには、まだ罪を犯していない美しくて優雅な娘(マグダラのマリア)がとてもお似合いである」
ところが、その祝宴の席でイエスが水をワインに変えるという最初の奇跡を披露してみせたのが運の尽きであった。これを目の当たりにしたヨハネは、初夜もそっちのけで、新妻マグダラのマリアを振り切って、イエスのもとに走ってしまうのである。
「イエス・キリストは、ヨハネが純潔なままであることを望んで、祝宴の後で彼を引き連れて行ってしまった」のだ、と著者カヴァルカは語る。
もはや「キリスト教保守派の唱える純潔とは何ぞや」との念が思わず湧くような一節ですね。
要は「イエスが、新婦から新郎(美男ヨハネ)を奪い取った」と。
むろん真偽は定かではないものの、しかしこうしたイエスとヨハネの内的事情を示す文献や図像が多数存在していることが本書で指摘されています。
昔から色恋沙汰は衆人の大きな関心ごとだったのでしょう。人間もただの「プラダを着た悪魔」ならぬ「服を着た動物」とでも言えましょうか。
そして、以下のように続きます。
そしてこの生娘はイエスの奇跡に心を動かされたわけではなかった。
というのも、「世の中のことはたいてい当てにならず、虚飾に満ちている」からである。
傷心のすえ彼女は、実家に戻るが、愛していた男が自分の理解できない信仰の愛に身を捧げていることに混乱し、茫然となる。
苦しみから逃れるために彼女は巷に出て、人前に身をさらすようになる。
そりゃこんな人生体験をすれば、退廃的な生活様式にもなりますよね。
人間には防衛機制という心の安寧を保つための反射的な心理反応がありますが、あまりに強烈な人生体験をしてしまうと、反作用が強すぎて尋常でないことをしないと心の平静を保てなくなる例は枚挙にいとまがありません。
プラトンが『饗宴』で語った有名な愛の神話
かつて太古の昔、人は同性か異性のいずれかを片割れとして持っていて、その自分に似た片割れに惹かれないではいない、というのである。
つまり、女を片割れにもっていた男は女に、男を片割れにもっていた男は男に、それぞれ愛を注ぐことになる
つまり「同性愛は普遍的である」といったふうに読めますよね。
昨今ようやく同性愛が一般化しましたが、むしろ近代以前は今よりさらに普遍的な様式だったのでしょう。
社会秩序と奔放は相反する
古きを語る書物を読んでいると、一貫して「以前は性に対して、文明化した今よりはるかに奔放な一面があった」ことが垣間見えます。
明治期につくられた戸籍や納税システムは、背景に徴兵制を円滑に進めるためであったことが『山県有朋 – 明治国家と権力』 (小林 道彦、中公新書)で記されているように、社会秩序と奔放は往々にして相反しますね。
もっとも、私の記憶が正しければ、『宗教からアメリカ社会を知るための48章』によれば、キリスト教はその宗派で同性愛を厳しく禁じる派もあれば、比較的寛容である派もあり、聖書の解釈は大いに分かれてきます。
日本の文豪と、イエスの弟子「ユダ」
なお、意外だったのは、
- 芥川龍之介『西方の人』
- 太宰治『駈込み訴え』
- 遠藤周作『沈黙』
などの日本の文豪がイエスの弟子「ユダ」に著作で触れているということです。
聖母マリアとキリストの関係

本書には以下のような記述があります。
- マリアは、処女でありながらイエスを宿した
- マリアは、イエスの母にして花嫁でもあり娘でもある
ということで現実に即すならば倒錯的かつ奇想天外な設定(もとい、「世界観」というべきでしょうか)です。
本書では美術品の画像が多く掲載されています。サブタイトルに「西洋美術の想像力と多様性」とあるように、その想像力の豊かさを示唆するような作品です。直接的に表現しがたいものもあります。
昔の人々は夜空を見て、それらをつなげて豊かな想像力で星座を見いだしたように、身体の神秘に対しても豊かな想像力を働かせていたのかもしれません(ややもすると、やばきち)。
神の性愛化と家父長制
ある研究者によると、神をセックスレスとして表象することは、家父長的なイデオロギーにとってむしろ問題を孕むことになるという。
なぜなら、家父長制に権威と特権を与えてきた神がセックスレスだとすると、男子によって家系をつないでいくという基本原則そのものが揺らぐことになりかねないからである。
これはたしかにその通りですよね。聖母マリアが処女にしてイエスを宿した件はどうなのかと思いつつ、神から性愛の要素一切を除いてしまうと、神という権威になぞらえる家父長はどのように子孫をつないでいくのか、という自己矛盾を抱えることになります。

中世ヨーロッパ各地における民話や伝承では、強権的な父親や夫の虐待に悩まされる妻や娘たちの信仰を集めてきたような内容が多いようです。たとえば、
ポルトガルの敬虔な十代の王女が、父親の意向で強引にシチリア島の非キリスト教徒の王のもとに嫁がされそうになる。
しかし、彼女は望んではいない。ただし、父親の命令は絶対である。
彼女にできることは純潔の誓いを立てて事態が進まないことをひたすら神に祈ることである。
祈りが通じたか、ほどなく彼女の顔にひげが生えて、めでたく婚約は解消。これに怒った父が娘を十字架にかけてしまう。
という若くしてひげの生えた処女が家庭内暴力のすえに磔にされるという珍奇かつ倒錯的なストーリー。かなりやばきちです。平たく言えば、家父長制の権威に抵抗しているわけですね。
現代でこそ男女同権がうたわれ、かようなことは少なくなったはずですが、家父長制における女性の境遇はなんとも不憫でなりません。
このほか
- 異性装(日本でいう宝塚歌劇)
- 両性具有のキリスト
- 異教神話における両性具有神ヘルマフロディトス
など、目を丸くする描写や図像が数多く出現します。
まとめ
本書を読むには、没入感を得るまでは根気がいりました。しかし読んでいくと、徐々にその珍奇というか、奇想天外というか、やばきち具合に一定の興味深さを覚え、以下のような感触に至ります。
- 美術を見る際にひとつの視点が加わる
― 宗教的色彩、想像力の豊かさ、倒錯的な世界観 - 中性に至る人々の生活様式と性愛、実に旺盛で変幻自在な想像力
- 聖なるものは、性的なものへの連想を排除しない
- 「秩序とはなにか」「文明とはなにか」「性愛とはなにか」を考えさせられる
人間と性愛というものは不可分の両者であり、一般に幸福を語る上で外せない要素のひとつでしょう。それだけで1冊の本が書けると思います。
本書はその性愛に関して、中世の西洋美術(それもキリストを題材として宗教的色彩が濃いからこそ自由に表現できたであろう)という角度からひも解くという意味で一点突破型であり、とはいえ次から次に度肝を抜かれる図像が出てきて閉口するほど多彩です。
私たちは自己のアイデンティティや帰属意識に固執するあまり、ややもすると他者に不寛容になりがちです。そこに寛容さをもたらすのは、自分と異なる異端で異質なものに触れることだと思います。
本書はその意味でも、異質なものに触れる機会と遊戯性を与えてくれるものと思います。
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