国家統合に「宗教の絆」が大きな役割を果たす理由
集団が体を成すには、一体感や秩序が必要ですね。
各人がバラバラの方向を向いているより、大きな1つのスローガンや目標に向かって一体的に進むほうが大きなうねりを生みます。
同様に、国家も集団の極致ですから、国家が体を成すには一体感や秩序が必要になるでしょう。秩序立てるために法律があり、そして倫理や道徳、宗教も大きな役割を果たします。
リンカーン初代大統領「宗教の絆は国家統合に必要」
書籍『宗教からアメリカ社会を知るための48章』で興味深い記述がありました。
合衆国初代大統領リンカーンが「国家を統合するために宗教による絆の必要性を主張した」とあります。
私は常々、まさに「国家統合(または、人々を集団的に秩序立てること)に宗教が果たす役割は非常に大きい」と思ってきました。
なぜなら宗教は、多くの人が一堂に会することになり、結束を強め、連帯感を高めうる活動だと感じたからです。新刊『#シンFIRE論』でも軽く触れたとおりです。
一体感を生む「集会の結束」(北京のクリスマス会)
北京留学中に礼拝に参加したことがあります。そこではまさに「宗教が集団の一体感を醸成する様子」を観察できました。
シンガポール人など、友人にキリスト教徒が何人かいて、クリスマスの礼拝に興味本位でホイホイついて行くと、人々が一堂に会し、華やかでにぎやかな生誕会が催されていました。
そこには一体的な高揚感がありました。人々がそこに集結すること自体に意義があるように感じられ、人々の結束と連帯感を強める作用を直感的に感じたものです。ちなみに写真にもあるように、宗教の集会はまず音楽ライブが催されることがあります。一体的な高揚の下地にもなりそうです。
ルームメイトの韓国人は敬虔なクリスチャンで毎週礼拝に行き、就寝前に聖書をたしなんでいました。これも個人の日常に習慣と秩序が備わったことになります。同じ習慣と秩序を持つ個人が集まれば、それはすでに立派に統率された集団になります。
そもそもアメリカは政教分離の国ではない?
さて冒頭の書籍に話を戻しますと、アメリカでは以下のような一見政教分離に反することが、当たり前のように行われていると本書で指摘されています。
- 公務員の就任宣誓
- 紙幣や硬貨に「われわれは神を信じる」の明示
- 国旗への忠誠の誓い
たしかに公務員どころか大統領の就任宣誓でも、聖書に手を置いてますよね。
私たち日本人は義務教育で、日本国憲法にある「政教分離の原則」を教えられてきました。政教分離とは「国家と宗教は切り離して考えるべき」という意味です。
しかし本書の前提に則れば、日本国憲法の草案を作った当のアメリカは、実質的に政教分離はなされていないということになります。この点が興味深いところです。
アメリカ自身が宗教色がきわめて濃い国体であるにもかかわらず、GHQ占領期に日本の国教であった神道を公式に廃止したということになります。
つまり、軍国主義の復活を防ぐというのは表面的な大義名分であって、国家としての結束力を弱めることが真の意図だったのではないか、といった論が成立します。
さらに冒頭で述べたリンカーンの「国家統合に宗教が必要」という考えを加味すると、というところでしょうか。あくまでこれらは推論の域を出ない部分がありますが、そういう視点も成り立ちますね。
まとめ
宗教はいわば人間の精神性を追究するものでありますが、その大きな副次的役割として「人々が集まり、一体感と秩序を生む」という面がありますね。
それはまさに集団や国家を機能的にする大きな要素でもあります。日本は今、多くの人々は日々の仕事や日常に追われ、大きく掲げられたスローガンや目標もなく、ゆえに全体として対症療法的であり、「ゆるい結束」のうえにかろうじて国家としての体を成しているようにも見えます。
本記事を見たうえで新刊『#シンFIRE論』を読むと、また違った見え方もあると思います。
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