人間関係を主体的に構築するということ
「経済的自由を得て、主体的に人生を生きられる」ということは、とりもなおさず、「人間関係も主体的に構築できる機会を得られる」ということでもあります。
「自らの属するコミュニティが受動的に決まり、尊敬の有無にかかわらず決められた上下関係がある」といった受動的な人間関係ではなく、日々の人間関係は主体的に構築されたもので作られています。
この状態は、「人間関係はかくも心地よく、深く交流することがかくも楽しいものか」と思わされます。
なにかこう、留学時代の刺激的で多様性のある人間関係をも想起させます。
- 農業ならば、西に尊敬できる方々あらば、西に向かい教えを請い、
- 金融ならば、東に尊敬できる旧知の友あらば談義し、
- ほか各ジャンルはしかじかにて
労働市場に目を転じれば、どうか
組織に属しながら、このような効用を得るには、やはり労働市場に流動性があった方がよいのだろうなとは思います。
たとえば人間関係が合わない職場になった人は、主体的に変えることができればその状態が改善されやすくなると。つまり転職しやすい労働市場の方が、その観点では望ましいのでしょうか。
ただ一方で、日本的雇用環境というものは、よい面もあり、そうでない面もあり。会社に属して、「終身雇用を前提として社内カリキュラムで経験を積んで、その会社に専従的に成長する(…①)」のもひとつの形なのだろうなとは思います。本当に欧米流に労働市場を変えてしまうことは、はたしてそれでよいのかとも思いますし。
ただ、①はピンキリな部分もあって一概には言えないのでしょう。社内でしか通用しないスキルを習得しても微妙ですし、「その1社の教育体制次第であり、その質に左右される」とも言い換えられます。
また、企業内で関連部門や技術がきちんと内製化されていれば、商流や関連の知見などを幅広く吸収しやすくなりますが、昨今は日本企業の技術力の退化もあってか、外注が多く、発注者もエンジニアといいつつも発注窓口になっているだけの大企業もあります。
90年代以前と、かなり状況が変わってきているのだと思います。
と、主体的な人間関係の話から、つらつらと途中から人間関係からの企業のお話になりましたが、労働市場の流動性・日本的雇用環境・企業の変化、など人間関係の主体性を決定づける変数はなかなかに多いものです。
そういった変数をできるだけシンプルにできるのが、自分で事業を営むことなのだろうと思います。
結局、合う・合わない、があるのでしょう。組織に属する方が性に合っている方もいれば、主体性を尊しとする人にとっては自分で事業を営む方が性に合っている人もいて。
それで社会はまわっているわけで、どちらかが素晴らしく、どちらかが劣っている、などということはないと思います。各人が適所で活動できる前提が満たされるかぎりは。
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どのようなはたらき方が自分に合っているか、という命題はやはり自分という人間を明確に認識しておくことから始まると思います。
各所にいろいろな人がいて、それぞれの生活を営まれています。
自分の力で依って立つには、やはり相応の力も一方で必要になると思います。自由と責任は表裏一体ですね。