最近はまっていること「新聞を乱読」 インプット即アウトプットが肝要
以前テレビ番組のFIRE特集で達成者の実例が紹介されていました。
- FIRE後も人生をたのしんでいる人
- FIRE後にやりたいことが見つからずに困っている人
自由な生活をいざ迎えると、①・②どちらになるかは人によるのだと思います。私は①と自認します(が、②の時期もなかったわけではなく、そこは模索期、人生体験を積んでいるうちに熱中できることに毎々出会うことになります)。
①である背景に「そのときどきに熱中できることに出会っている、または探し当てている」からだと思います。
たとえば最近でいえば、タイトルの通り新聞を乱読することにはまっています。基本は日本経済新聞を主体としつつ、全国紙や地方紙を問わず読んでいます。
これがおもしろくて。1紙を熟読していると、気づけば1~2時間経っている。
万博、政治、欧州の再軍備、認知症の話、市民生活が描かれた投書欄、社説、金融、米国の捕食外交、イスラム圏での債券の話――。
ジャンルを問わず読み込むのがとにかくおもしろいです。
新聞を見れば、「世界では今どのようなことが起き、耳目を集め、問題になっているのか」といった要覧を得られます(もちろん新聞も書物も、言ってしまえばあくまで一面的な見方に過ぎず、多面的にとらえるには自分なりの視点や人生体験が併せて必要かとは思います)。
インプットとアウトプットは「両輪」
集積知という言葉があるように「みずからに蓄えた知識や人生体験がつながって独自の視点や見解が醸成され磨かれていく」という感覚があります。
そのためにやはり「インプット(情報や知識の吸収)は積み上げるに越したことはない」というのが半生を通しての感覚的結論です。
たとえば新聞を読む際には、印象に残った記事を写真等に収めておきます。なにかの拍子にほかの出来事から連想して点と点がつながって線になることがあるので、あとで引き出せるようにスマホに格納しておくわけです。こうしてまずインプットしておく。
そして日常に「ブログを書く」というアウトプットがあります。これが好ましい影響をもたらしていると思うのです。
インプットしたものはアウトプットしてはじめて血肉になる。これは留学で中国語を習得する過程でも感じたことです。

西安で撮影
学んだ単語や文章は毎夜復習して、とにかくすぐにそのへんの中国人をつかまえて(笑)学んだ単語や文章を使い倒すわけです。すると、明らかに脳に定着し刻まれていくわけですね。語学の要諦のひとつかと思います。
つまりインプットとアウトプットは1セット、2つでひとつ、集積知を得るための両輪を成すというわけですね。
中高時代の友人が「同じネタをいろんな人に話すうちにこなれてきて笑いがとれる精度が上がっていく」と言っていたことも思い出します。これも「人に話す」というアウトプットを重ねることで磨かれていく一例かと思います。
まとめ
日々なにかを学んでいく姿勢というのは、人生全般に好ましい影響をもたらすだけでなく、日々の健全な精神を育むうえでもよいと感じています。
知的好奇心が満たされ、少しなにかが前進したような気持ちにさせてくれるのではないでしょうか。
そして、そのときどきで熱中できることに遭遇するためには、やはり「人と会い、本を読み、見知らぬ土地へ行き、映画を観て、芸術に触れ、運動をする」といったように人生体験をとにかく増やすことに尽きるように思います。
若くしてやりたいことがみつからない場合は、人生体験が一定量に達すればおのずとみつかるのではないでしょうか。
と青二才が厚顔に宣(のたま)いましての結びといたします。
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