「最善手をみつけるよりも大切なのは悪手を指さないこと」

素敵な道
最近印象に残った言葉があるので記します。
人生は悪手の山の中
●悪手でなければどんな手を指してもかまわない
かねて私は、「人生は悪手の山の中を歩いているようなものだ」と説いてきた。
出所:米長邦雄『不運のすすめ』
最善手を求めるより、悪手を指さないこと
最善手をみつけるよりも大切なのは悪手を指さないことです。
出所:米長邦雄『人間における勝負の研究―さわやかに勝ちたい人へ 』
米長邦雄さんは、すでに逝去された著名な棋士です。
- 悪手というのは将棋で「自分を不利にする悪い手」であり、転じて「よくない選択」といった意味でもよく用いられる言葉ですね
- 最善手はその反対で、「自分に利するよい手」、転じて「よい選択」となります
説得的です。たとえば各界でも、いくら長年信用を積み上げてこようとも、悪手(例:不祥事など)を指せば瓦解するのは一瞬です。
悪手を重ねて最善手を指しても挽回の余地は往々にしてありませんが、逆にいくら最善手を重ねてきても悪手を指せば往々にして一発退場。
たとえば先日、友人の知人で不祥事を起こした弁護士がいて、弁護士資格はく奪の憂き目に遭った人がいます。
「人生は悪手の山の中を歩いているようなものだ」との言のとおり、彼は悪手を指したことでそれまで苦心して獲得した弁護士資格を失いかねない状況になりました。この事象を見聞きした友人と、こうたしかめ合いました。
「悪手も悪手。本件にかぎらず、周囲に甘えて好き勝手したり、立場を勘違いしたりすると、どこかの時点で自分に跳ね返ってくる。気をつけよう」
うまく行っていないときほど、慎み深い
「人生は悪手の山」とは言い得て妙で、私も以前実感したことがあります。
魅惑的な果実というものは、とかく時折眼前に現れるものです。その際、
- 人生がうまく行っているときほど、果実を無思慮に食べがち
- 逆に人生がうまく行ってないときほど、慎み深くまず一考できる
といった傾向を認めることができます。ですから、うまく行っているときは同時に手綱を締めるべき時期でもあるのです。これは半生で幾度となく痛感したことでもあります。
そしてこうした状況は、よほど客観視していないと現在進行形では気づきにくい。たいていのちに違和感があり、内省をして気づけます。したがって、人生がうまく行っているときほど慎み深く在る意識が必要だと思うのです(もちろん、それは難しいことでもありますが)。
まとめ
- 最善手を求めるよりも、悪手を避ける
- 人生に悪手はそこら中に転がっている
- 人生がうまく行っているときほど無思慮に手を伸ばしがち、慎み深くいる意識が必要
とくに③ですよね。この手のことは定期的にみずからに刻む必要があると思っています。
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