この季節の夕涼みで得た回顧と感受
早めの夕飯と温泉を終え、家のお庭で椅子に腰掛け、緑の匂いと景色を傍目に上の空を眺めて夕涼む。
その感受を備忘するかのように、スマホを取り出してこの記事をその場でしたためる。
こういう幸せは、財やサービスなどから感じる一時的な幸せのように逓減していくことはなくて、毎日同じだけの不変の幸福量を感じることができる。
飽きることもなければ、感じる幸福の総量が減っていくこともない。
幸福を定義する者と、その尺度
自分の幸福というのは、当然ながら他者が定義するものではなく自分が定義する。自分という人間は自分が一番わかっているし、万人に正しく理解してもらおうなど尊大ですらある。
自身の確固たる価値観・人生観があれば、そこに第三者からの評価や尺度が過度に入り込むことはなくて、気に留める必要性もときに生じない。望む地に世界観を構築し、その価値観に共鳴する人たちと享受することができる。
他者からの評価を気にしている人は即座にわかる。あくまで主観を排して言うと、
- 「自分の確固たる価値観や尺度」ではなく、
- 「一般的な見栄えや他者からの評価」を軸として、
自らの行動様式を規定しているにもかかわらず、それをあたかも自分の心の声に従っているかのように自らを納得させている(さらには無理している)傾向がみられる。
もちろん、この種の現象は人間の防衛機制(受け入れがたい状況等による不安を軽減しようとする無意識的な心理メカニズム)上は自然な防御反応であり、もちろん当人がなんら咎めを受けるものでもない。
当人の環境・客観性・精神的な余裕の有無など、その防衛機制が働いていることを当人の目からそらす要素は転がっている。精神的に自由を得ていれば、それは冷静に見えてきやすい。
経済的な自由を得ると、地理的・精神的な自由など、様々な自由が得られるやすくなる。すると、今まで見えてこなかったものが見えやすくなるというのはほぼ確信を持って言える。
自分なりの幸福とは
そんな夕涼みタイムで人生の妙味を感じるとともに、人生の早い段階における確固たる価値観の確立はやはりきわめて重要であったことをあらためて感じる。
以上をふまえ、幸福のひとつの側面を言語化すると、
「幸福とは
- 自ら定義し、
- 他者ではなく自身の確固たる価値観・尺度によって規定・実現できるだけの自由度が得られた状態で、
- 自身の価値観・尺度によって実際に規定・実現できた際に、
- (さらには、その価値観に共鳴する人々とも分かち合え、社会的な承認も得られている状態である際に)
強く感じられるもの」
ではないか。
というのがベランダでの再認識的まとめ。夕涼みになに考えとんねん(笑)
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コメント
とても興味深くかつ納得させられる記事でした。
「防衛機制」という言葉は初めて聞きましたが「あたかも自分の心の声に従っているかのように自らを納得させている」というのは思い当たる節が多く、何とも耳が痛いところでした。
と同時に、日本社会特有の同調圧力やサラリーマンというある種のマインドコントロール下でそれとは異なる価値観を持つのも維持するのもかなり困難な事にも思えました。実は教祖を信じていない出家信者みたいなもの?
バレたら思いっきりシバかれそうですね!