スポーツとは、観るものではなく、やるものなのか
私がときに思うことのひとつに、
- スポーツは「観るものというより、やるものである」
ということがあります。
補足
なんらかの制約があってプレイできない人もいらっしゃると思うので、そういうかたを念頭に置いたものではありません。
スポーツ観戦、たしかにおもしろいです。日本が国際試合で勝てば誇らしいですし、敬意を表して拍手を送りたくなります。
しかしそれ以上でも以下でもないと思っています。もし仮に、「選手たちに疑似的に自己を投影して、自分がなにかを達成できた気になっている」のだとしたら、それは少なからず注意を要すると思うのです。
なぜなら、ある意味で自分は「なにもやっていない」からです。身体を動かしているわけでもなく、なにかを自分で成したわけでもない。単に批評をしたり、ミスした選手に悪態をついて口だけを動かしているような状態は避けたいところです。それは自分の人生をごまかしているように見えます。
観戦というのは、目だけを動かして体を動かしていない。私はとにかく自分でやらねば、つまらないと思います。上手でなくとも、自分の体を動かすということ。
ゴシップも同じだと思っています。他人の人生や作品に対して口だけを動かし、実体なき征服感や陶酔感で脳内を満たす行為ではないでしょうか。
対して自分の人生に集中し、責任を持ち、行動と反省と改善を重ね、地に足をつけて生きていく。そうすることで人生体験や糧を積み上げていくことができます。口や目だけでなく、体を動かしているからこそです。
補足:あくまで自分に対して思うだけ
もちろん、女性で年齢を重ねれば、傾向として「推し」を作ることで人生の満足度が上がるという指摘があります。誤解なきよう申し添えますと、否定する意図はありません。人生はたのしんでなんぼ、他者がたのしんでいる行動を否定する意図はなく、ただ単に私は以上のような考えを持つことがある、というだけです。
極論すれば、大谷選手がホームランを打てば、同じ日本人として誇らしいですし、うれしいですし、それはもう惜しみない拍手と賞賛を送りたく思います。
しかし言ってしまえば、自分の人生や成したことと関わりはありません。自分の決意や、生きていることと関わりはないわけです。それはあくまで他人のドラマ。
自分が自分という人生をプレイし、その瞬間瞬間で全力を尽くすこと、その一点に集中することが大切だと思うのです。
その意味で、スポーツにかぎらず「なにかに秀でた人」がすごいというよりは、対象物に対して全力を尽くすその姿勢こそが美しい。そして自分もそうありたいと思うのです。