老いて害にならないように気をつけようと思った話
先日、友人と話していて、「老害(あまりよろしくない言葉だとは思いつつも)にならないようにしたいよなぁ」と確かめ合いました。
きっかけは、とある元プロスポーツ選手が語っている動画を見たことです。
友人
そこで私もその動画を見てみると、深く同感せざるを得ませんでした。
そのかたの実績は誰もが認める超一流。しかしなんとも偉そうで、内容も腑に落ちないものがあり、一緒に飲んだらひたすら説教されそうな印象を受けました(ただし、数年前の過去動画はそうした印象は皆無でした)。
なぜそう感じるのか考察してみました。おそらく以下に集約されるように思います。
- 自身の専門分野ではない門外漢の分野で、まるで専門家が「唯一の正解」を述べるかのような話しぶりである
- ほかの意見を受け入れなさそうな印象を受ける
- とにかくどや感がすごい(周りにちやほやされてきて、その状況に慣れていることが一因か)印象を受ける
何事もバランスが重要、さじ加減が難しいところではあるのですが、自分ごととして考えたいと思いました。
かぎられた時間を生きる中で人生体験を増やすひとつの方法は、やはり「他者であっても、自分ごととしてとらえ、教訓を得る」ことかと思います。
とくに③について思い出すことがあります。以前、侍ジャパンの監督として金メダル獲得後の栗山監督への密着ドキュメンタリー番組を見ていました。そこで、栗山さんは以下のような趣旨のことを話していました。
栗山監督
この内容はとても印象に残っています。なぜなら、「往々にして、こうして人は勘違いし、客観的事実と自己認識が乖離していく」と経験則として感じていたからです。
しかしだからと言って、どやること自体が悪いとも限らないのが難しいところです。みずからの成功体験に由来する自信は、よい方向に作用することも。すると、どやり方の機微の問題(笑い要素を混ぜるなど)なのでしょうか。
まとめ
以上をふまえると、いわゆる「老害(あまりよろしくない言葉だと思いますが…)」や「勘違いした人」になることを防ぐための方策は、以下のような表現に集約されるでしょうか。
- 謙虚さを持ち合わせ、
- 努力や忍耐によって勝ち取った成功体験によって内なる自信を湛え、
- 自分が思う「正解」に固執しすぎないこと
自信は内に湛(たた)えておく。そして、自分の考える「正解」は絶対的な唯一無二というよりは、あくまで「数あるうちのひとつの考え」という可能性を念頭に置くことで、自分と異なる考えに寛容的である謙虚さを持ち合わせる。そうしたことがひとつの解と言えるように思いました。
ちなみに友人の分析は、以下のとおりでした。
- シワが増えたり老けを感じる
→ この人は生物としてもう終えたとこちらが無意識にみる
→ それにしても偉そうである
→ 老害に思えるのかもしれない - 現役を引退し、話が過去の経験則や栄光に聞こえる
→ 老害に思えるのかもしれない
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