私が考える「FIREに向く人・向かない人」
先日、取材で「FIREに向く人・向かない人はどんな人だと思いますか」というお題がありました。
僭越かつ恐縮ながら、私見を以下まとめました。FIREに向く向かないにかぎらず、普遍的に言える部分もあるかもしれません。
主体性と受動性
まずFIREに向く人(というか外部環境の変化に適応できる人)というのは、自分の頭で物事を考えられる人ではないでしょうか。
たとえば何かあった時にニュースで「A」と言っていたとします。
それを受けて、「あ、じゃあAなんだ」と直線的に考えずに「Aという説もあるのか」ぐらいに一歩引いて俯瞰できる人。
たとえば、「アダムスミスの国富論の要旨は、Bです」という見解を見たとします。ただしその見解の正誤は、自分で実際に原著を確認して、元の言語で理解して初めて本当に判断できるわけです。
にもかかわらず、「要旨はBだったのか」と直線的に解釈するのはリスキーに思います。他者の考えに乗っかると、応用が利きにくく、自己肯定感も生まれにくい。
少なくとも「だれかの視点を通すと、Bという内容だったのか」と一歩引けるぐらいがちょうどよいと思います。でないと、他人の考えや表層的な理解で没入してしまいやすい。
時代や情勢というのは、日々刻々と変わっていくわけで、どんな名著も名文も定説も固定観念も有効期限が切れることもありますね。
株式の個別銘柄も、その時その人がなんらかの事情でそれを選択しただけであって、1日後どうなっているか不明ですし、あくまでその時点の判断にすぎないことになります。
他者の意見や考えに受動的にならずに、自分に落とし込んで自分の頭で考えて、なんなら率先して切り開いていける人は、FIREに向いていると思います。
たとえば、史上初の外国人女流棋士となったポーランド人のカロリーナさんは、当時のポーランドで将棋盤や駒は手に入らなかったため、木や紙で自作したそうです。
彼女は日本語も読めなかったので過去の対局や研究から導き出される最善とされる将棋の指し方(定跡)は学ばなかったため、自分の頭で考えたと。「駒がなければ自作する」、「定跡を学ばなければ自分の頭で考える」、こういう人は言い訳もしないでしょう。意志と行動力が感じられます。
自ら本質をかぎ取って、それが正解なのかはわからないけれども自分なりに試行錯誤して、たとえば農業なりなんなりに本質があると感じたらとりあえず時間の許す限りとことんやってみる。
そうすると必ずその人にしか見えない景色は存在するんですよね。農業してない人にはその景色は見えない。実際に土を触らないと大地の温度はわからない。漁業だって土建業だってそうですよね。
依拠できるもの、依拠できないもの
結局、金融市場でもなんでも、単一の対象に依拠しすぎると精神的な自由は遠のくと思います。
FIREした後も金融市場にフルベットだと、自らの金銭的な要素を市場に委ねることになってしまいます。それはもう主体的というよりも、受動性が生じてしまいます。
じゃあなにが一番主体性があって、さらに依拠できるのかといえば、自分ですよね。自活能力ですよね。今まで述べてきた通り、人的資本であり、知性であり、自信であり、適応能力だと思います。究極的には「自分で食べるものを作れるかどうか」とも言えます。
具体性と普遍性は相反する
ちなみに今しがた上で述べたことは、抽象的な部分もあります。なぜなら本質は往々にして抽象性にあるからです。
具体例を挙げてみます。
- 「英語」を勉強した方が役に立つ
- 「母国語以外の言語」を勉強した方が役に立つ
前者は後者より具体的です。しかし、より普遍性があるのは、抽象的な後者です。なぜなら、前者は「世界で支配的な言語が英語である」という前提条件が付されているからです。
この前提条件が変われば、陳腐化します。つまり、具体性と普遍性は、往々にして相反することがイメージできたかと思います。
「この国に投資しておけば安心」「これをしておけば安心」というのは具体的でわかりやすいですね。そんな普遍性のあるものがこの世に具体的に存在すれば、いずれ陳腐化するでしょう。具体的だからこそ陳腐化するのです。なぜなら、わかりやすくて集団的に殺到できるからです。
19世紀前半、イギリスから始まって他国に広がったとされる「協同組合運動」があります。これは、銀行や鉱業などで経営者ではなく労働者が団結して協同的に経営する運動です。しかしこれは、少人数では上手くいったものの、大衆化する過程で上手くいかなかったとされています。
黄色下線部は示唆に富んでいます。なにかが大衆化すると、警戒してよいでしょう。そういった視点は常に持ち合わせておいた方がよいです。
たとえば、「米国株だからよい」のではなく、「市場全体としての将来成長性を過去の傾向上は比較的賭けやすいのが現時点では米国だと考えられるから、その1つの選択肢としての米国株」といった形で理解しないと、普遍性に欠け、前提条件が変わった際に応用が利かなくなります(ちなみに、いろんなことを知れば知るほど、株式は犠牲の上に成り立っている側面もあります。一面的な礼賛は難しい部分も見られます)。
ポイントを理解するときは、あえて具体性を減じて、抽象性を増したかたちにして理解すると、応用が利くということです。
価値観・人生観
もう1つ。従前から述べているとおり、自分(・家族)の価値観を深堀りできる人でしょうか。
なにに幸せを感じ、どういうときに充実を感じ、どういったことを避けたがり、人生がどうありたいのか、といった諸々の価値観・人生観を明確に自身で把握できる人はFIREに向いていると思います。
ここを把握できていないと、FIREした後に理想の生活を描く材料が不足して明確に実現しづらくなると思います。
これはFIREする・しないにかかわらず、普遍的に言えることでもあります。自分を深く知っていれば、自分を的確に表現できますし、相手にも伝わりやすくなりますし、双方の価値観をすり合わせることも容易になります。
恋人や配偶者と付き合う際も重要なことだと思います。FIREに理解ある配偶者を見つけるのが難しいと感じる方もいるかもしれません。しかし自分を深く知り、相手にまずそれを表現して、そのお互いの感触を確かめれば、おのずと解決されるのではないでしょうか。
なんなら、最初からパートナーに「私は経済的自由を達成して主体的に人生を描きたい」とあらかじめ宣言しておくことも一案です。さすれば、達成前後の変化に対する家族的な理解は得られやすいでしょう。何事もやりよう次第です。
泣いても一日、笑っても一日
一般的に人間は心配しやすいですね。
何世紀にもわたって資本家はリスクを減らす方法を考えてきました。それが銀行であり、保険であり。保険市場がこれだけの規模であることは、人間が心配性である証左と言えるかもしれません。
FIREしたって、心配性な人はいくらでも不確実性を見いだしては心配してしまうでしょう。FIREしたって、物事の不完全性をあげつらっては批判に費やす人もいるでしょう。
不満・心配・不完全な点というのは、見つけようとすればいくらでも見つけることができるでしょう。しかし、泣いても一日、笑っても一日。
欠けた月を見て、「趣があって綺麗だな」と思うのか、「満月ちゃうんかい」と思うのか。
FIREした後もだれかやなにかと競っていたら、はたして精神的な自由を得られていると言えるでしょうか。
ひとさまはひとさま。自分と異なる人間です、立っている土俵も異なれば、興味や背景・注力したい諸事もまるで異なる。
これら普遍的な事実を踏まえれば、有限の人生を生きる中でだれかと比較することがいかに無意味なことかと思いませんか。なぜなら、異なる有機体だからです。
出自や学歴、生い立ちから環境まで全て同一条件下の人と比較するならまだわかります。それならわかります。なぜなら、条件が同じですもの。違いが生じたのなら、どこで分岐点があったのか考察に値します。
しかし個体も異なれば条件も全て異なるのが人間ですから、比較してもそこに意義は感じられないのではないでしょうか。
以上が論旨です。本記事で最後に明瞭にまとめない理由は、具体性を持ってまとめると、抽象性を欠き、普遍性が失われがちだからです。
Best wishes to everyone.
コメント
いつも学ばせていただき、ありがとうございます。
今回の最後の方で、はじめのテーマ?(抽象的の方が普遍的)に、つながった所に、驚き、また、上手にまとめられるなあ~! と、感心いたしました。
なんか、サッカー元日本代表の遠藤保仁選手が出演したTV番組を思い出しました。
彼が得意なのは、ピッチを鳥瞰し、抽象的な状況(敵味方の立ち位置など)をいかに理解して、それに基づいて先を読み、そして今必要な行動を取ること
また、ハーフタイムに一人だけシャワーを浴びたり、車を30kmで走らせたり、空気を読まない
もちろん、他の人からのアドバイスなどはいつでも聞いて、納得したことは取り入れる
人間の中身にも迫る話、勉強になります