FIRE後に豊かな人生を送るために
FIREという目標を持つ人は多々いるかと思います。
実際に自由を手に入れると、自由を謳歌する人、なにかに打ち込む人、苦痛で組織に戻る人。人の価値観や感じ方によっていろいろだと思います。
実際にFIREをしてみた経験から、FIREという目標達成の先に、豊かな生活を送るために必要だと思うことを記します。FIREをめざすにしても、これらを事前にみすえておくとよいかと思います。
① 金融市場への依存度を下げる
一般にFIRE後の主な収入として、株式など金融市場によるものが多くみられます。
「配当>生活費」という状態は手間いらずで心地よいです。
ただし、配当が多いということは、それだけ株式市場というリスクにさらす資金も多くなることを意味します。
暴落や長期低迷の場合には、全身で受け止めることになり、心地よさが失われます。
したがって、金融市場への依存度は下げておいたほうが心地よいです。
資産が3億円以上あれば、金融市場への依存度を下げるのはカンタンです。半分の1.5億を株式市場に置くだけで配当を500万円得ることは難しくありません。
ただしそれほど多くの資産を持つ人は稀です。現実的に多くの人にとって、金融市場への依存度を下げるためには、現金をある程度確保しておくことが大切になります。
現金を多く持つことは、得られる配当が下がります。
ではどうしたらいいのでしょう。以下がその答えになるはずです。
② 専門性を生かす
人によって感じ方はさまざまだと思いますが、FIREをすると、最終的には「周囲や社会とどうかかわるのか」という問いに行き着くと思います。
「人間は社会的な動物」というのが持論です。動物としての本能を持ちつつも、社会性、つまり人々と関わり、感謝されたり笑い合うことで幸福を感じます。
そして、幸福には自己肯定感も必要です。自分の能力や専門性、個性をいかせると、健全な自己肯定感や自信も生まれます。
「だれでもできること」より「自分だからできること」にやりがいを感じますね。
専門性を得るためには、努力や労力を重ねることが必要になります。「FIREしてからも、努力せなあかんのかい…」と思うでしょうか。
でも好きなことであれば、努力を努力と感じずに労力を重ねられます。もっと言うと、よりよい人間でいるためには、努力と修練を重ねることは必要だと思います。
停滞すなわち衰退です。模索と修練の先にまた新たな景色が見えます。
専門性を新たに得るには、たとえば、まったく新しい分野に飛び込んでみて、興味を確かめるのも1つです。
または、今までの人生で培ってきた分野を掛け合わせることです。英語ができて、和食が好きで、人と関わるのが好きなら、訪日外国人向けに和食ツアーを企画するなどもおもしろいですね。
そうして収入を得ることで、結果的に金融市場への依存度を下げることにもなります。
③ 現物収入を得る(かんたんです)
人間が生きるうえでの根幹は、食です。
生存において最も重要なことの1つですね。その食をある程度じぶんで確保できると、自立感があります。現金収入以外に現物収入も得られるので、現金収入への依存度も下がります。
自由を求めてFIREしても、株式のみでは結局金融市場に依存することになる。
そのため、
①事業や不動産等による現金収入
②農業や家庭菜園による現物収入などもあると、精神的・社会的にもより豊かな生活を楽しめると思います。
社会と接点を持ち、時代の流れを感じれば時流も読みやすいかも。
— 穂高 唯希|新刊 #シンFIRE論 (@FREETONSHA) May 5, 2022
昨年、家庭菜園をしました。家のベランダでプランターを並べ、ホームセンターで土と種を買ってきて、植えただけです。
ミニトマト、ナス、ピーマン、小松菜、大葉、オクラ。
農薬を使わずとも、どれもすくすく育ちました。かなり手軽で簡単です(ただし、春先の小松菜はネットをかぶせないと、虫食いでやられます。オクラとミニトマトは手でアブラムシを除去したほうがいいです)。
まとめ
- 金融市場への依存度を下げる
- 専門性をいかす
- 現物収入を得る
3つ挙げました。FIREするしないにかかわらず、豊かな人生を送るうえで普遍的に言えることかもしれません。
とくに②。人生の灯が絶えるまで、やれるかぎりはやり続けることで、燃え上がるのでしょう。
FIREすると、自由で最高です。自分で決めるのが好きな人にとっては最高ですが、決断疲れにおちいる人は苦痛に感じるかもしれません。人によって感じ方はさまざまです。人によって、FIREというかたちにこだわる必要もありません。
選択するということは、なにかを得る代わりになにかを手放すということです。
どのような状況であれ、選択した以上は、選択後の人生を豊かに生きたいですよね。実際にFIREして私が感じたことを記しました。
「自由」とは本来仏教の言葉で、自分の外にあるものに惑わされる生き方をやめ、自分自身を“由”りどころとするという意味。なるほどたしかにそうですね。