点と点が線になり、半年間の違和感が氷解した
サスペンスドラマや映画で、数々の証拠材料を集め、これら点と点が線になり、真犯人につながることがありますよね。
これはドラマや映画にかぎらず、私たちの生活での対人関係でも同様のことがあると思います。私自身も経験したことがあります。
もちろん犯人ではなく、「このかたは、どういうかたなのか」を看破するという点においてです。
付き合いが深く長くなるほど、数々の言動が蓄積されます。そして量が一定程度を超えて蓄積されると、「一つひとつの言動」という点が、「傾向」という線になります。
数々の材料に共通する点が見いだされることで、傾向になるわけですね。一つひとつの言動それ自体は当人に対する人物評や人物像の形成には至りません。しかし傾向となることで、はじめて当人への人物評が形成されるに足る状態となります。

この感覚は非常に鋭敏かつはっきりしたもので、まるで新たな段階に至った錯覚さえおぼえるほどです。もちろんその視点が完璧に正しいと信奉することは控えるべきですが、練り上げられたものほどその感覚に至った時の感動は大きく、妥当性が増すものと思います。
これはあくまで対人においてですが、事業や投資などにおいて「コツをつかむ」「要諦をおさえる」ことに似ているのではないかと思います。
対人対物どちらにおいても、「要諦」をおさえれば、型が決まります。一本の大きな幹となる型が決まれば、あとは枝葉末節に過ぎず、術式に振り回されず俯瞰できるようになる。
『鬼滅の刃』で炭次郎が至った「透明の世界」ほど崇高なものになぞらえるつもりはありませんが、ある種それに近い要素があるようにさえ思います。そしてそこに至るには、やはり難局にありながらも正対し、他者にたよらず自力で切り抜けることが唯一の道なのだと思います。

粋を集めて練り上げられた老祥記の豚まん
何の話やねんという感じですが、自分のなかで大きな一里塚として、記録しておきたいと思います。