ブログという文字を紡ぐ者として、大切にしたい2つのこと
私がこの数日、「お金の相談会(関西版)」を通して感じたことがあります。
それは、「ブログで日々紡いだ文字の影響力」です。
あらためて別途まとめたいと思いますが、それほどありがたいお言葉やお品の数々をいただきました。この場を借りて、あらためて感謝申し上げます。

本日のご相談風景①

本日のご相談風景②
そうした影響の大きさを考えたときに、私が今後も大切にしていきたいことがあります。
- 最も警戒すべきは、人間が何かを信じ、絶対の正義を握りしめ、他者を糾弾すること
(なにかひとつの価値を「絶対の正義」とみなし、そこから逸脱すると批判すること) - できるだけ「中庸」であること
いま日本は、羅針盤を喪失した状態かと思います。
かつての総中流社会は失われ、物価上昇に見合って賃金が上がり年金などで負担に見合うサービスがなされるという安心感も失われている時代です。
富裕層を除き、自分の老後や経済状態に不安を抱かない国民は少数派となり、昨年の衆院選では手取り103万円の壁だはを訴えた国民民主党や、消費税ゼロを唱えたれいわ新選組が伸長したことが、世相を表す象徴的な事例かと思います。
SNSの隆盛もあいまって、政治的な争点において巨視的な視点は失われ、きわめて微視的かつ単一の問題が争点となることが続いています。総理の食べ方が汚いなどと役職の本分や事の本質と無関係な些末なことが耳目を集める始末です。
そのような時代、そしてフロンティア(未開拓地)が失われ資本主義が行き詰まり右肩上がりの成長を期待できない時代においては、トランプ氏の登場が象徴するように、「この人なら何とかしてくれる」というヒトラーよろしく極端な主張を展開するカリスマ性を感じる政治家に人々は光明を見いだし、起死回生を託す傾向がみとめられます。
つまり、言論が過激になりやすい時代かと思います。私自身、先日の記事は踏み込んだこともあり、ブログにおいて気をつけたいことをあらためて定義しておきたいと思います。
- 最も警戒すべきは、人間が何かを信じ、絶対の正義を握りしめ、他者を糾弾すること
(なにかひとつの価値を「絶対の正義」とみなし、そこから逸脱すると批判すること) - できるだけ「中庸」であること
「かつて戦争体験を批評活動の原点としてきた吉本隆明(詩人・評論家)は、まさに①のとおり、「人間が何かを信じ、絶対の正義を握りしめ、他者を糾弾する」という行為(★)を警戒していた人である」と、思想家の先崎彰容は評します(出所:以下Wedge)。
(★)の行為はまさしく、昨今のSNSで耳目を集めやすい主張の「型」です。つまり、わかりやすく短い言葉で正義と悪を定義し、悪を糾弾する正義に大衆も酔いしれ、ある種の満足と陶酔を覚えることになります。
SNSで耳目を集めれば、金銭・名声・権威・承認をも得られる時代ですから、上記の「型」を採用する情報発信者も跋扈することになります。
したがって激しい主張や、簡明な勧善懲悪が流行り席巻する現象が生まれますね。
しかしやはり物事というものは、そう簡単に白黒つけられるわけでもなく、グレーゾーンが存在するわけで、そうした森羅万象をあらわす際に必要なのは、極端に偏らずに物事の平衡感覚を備えた状態である「中庸」であれということでしょう。
「結論をあえて明示せずに、余白と含みを持たせて読者が主体的に考える材料の提供等にとどめる」とも場合によっては言い換えられるかもしれません。
以上のような塩梅で、これからもブログという人々とのご縁が紡がれる良き空間において、記事をしたためていけたらと思います。ありがたいかぎりです。
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