人生の要所を押さえる「動物としての勘」がはたらくか、どう磨くのか
なにかこう穂高は完全なるストイック人間といいますか、ある一面では無欠のようなイメージをお持ちのかたに時に出会います。
しかしぜんぜんそんなことはなくて、週3で1日4時間ゲーム(APEX)をした週もあれば、夜9時にカップ麺を食べた日もあれば、モスでバーガー2つ・オニポテ・モスチキンを食べた直後に中華料理店で五目そば・イカと野菜炒めを胃に詰め込む日もあります。
夏はクーラーをしっかりとかけてアイスを食べながらしっかり4時間集中してゲームするにかぎる pic.twitter.com/7eR5GpuLns
— 穂高 唯希|新刊 #シンFIRE論 (@FREETONSHA) August 26, 2024
こんなふうに思う日もあれば、怠惰で享楽的に過ごす日もあります。
怠惰はダメか、享楽はダメか
少し話がそれますが徒然なるままに筆を走らせますと、とかく我が国ジャパンでは、
- 「○○はダメだ」
- 「○○はよい or よくない」
などと、何かと物事を消極的または二元的(極論)にとらえすぎて自縄自縛になっている面がみられます。海外留学から帰国時とくに感じたことです。
時に怠惰な1日もあってよし、享楽的な1日があってもよし。「◯◯でないといけない」なんてことは本来そんなないはずです。
日本の社会では人間的に「角がない」という評価を得ることが人格の理想像とされがちですが、そんなの全然おもしろくないですよね。
二元論や極論に注意
そしてとかく我らがジャパンでは、物事を
- 良いか
- 悪いか
という二元論で語られがちだと思います。しかし二元論というのは非常に物事を単純化して陳腐でわかりやすく矮小化する際には有効かもしれませんが、物事はどだい二元論で片付くものではないでしょう。白か黒だけではなく、グレーもあり、それぞれ濃淡がある。
しかし二元論はとかくわかりやすい。大衆に訴えるには非常に有効である――。
これは否定しようのない事実でもありましょう。
なんなら拙著『#シンFIRE論』でもふれたように、物事にかぎらず人間も多面的であり、美麗な一面もあれば醜悪な一面も併せ持つのが人間という生き物ですよね。
「動物としての勘」がはたらくか
話がさらにずれていきますが(笑)、たとえば人を見るときに、世間を知り人間に対する洞察力があれば、
- 人には美麗な一面の向こう側に醜悪な一面もおそらくあって、そこをどこまで許容できるか
といった「よい意味で相手を盲信しすぎない」という前提を無意識に設けているはずです。そしてその用心は人生の要所を押さえるために時に必要なはずです。
いやそんな小難しいことをいちいち考えずとも、動物としての勘がはたらくはずです。「あ、この人やばいな」「あ、この状況はまずいな」といった感覚。この勘こそが非常に大切だと思います。母もよく言っていました。「動物としての勘を大切にしなさい」と。欠落すると、人生に多大な影響をおよぼす ①付き合う人、②属する環境 を見誤ってしまいます。
ではそうならないようにどのようにして磨くのか。これはもう人生の集大成と言いますか、とにかく異質なものや世界に触れ、森羅万象から貪欲に学び取ろうと観察し、挫折や失敗を通して同じ過ちを繰り返さぬよう猛省をし、決然と次に生かす。そうして少しずつ人生における経験則という糧を収穫し、勘が磨かれていく。
巷にあふれる「こうしたらこうなる」などというこれまた二元論に近い論法で簡単に勘が磨かれるわけがありません。誰かや何かに思いっきり殴られながら、または自分で自分を殴りながら自力で学びながらやっていくしかない。
今の日本は電車で注意したら刺殺されるなど、以前と比べれば街の頑固おやじやきつく叱ってくれる人も減りましたよね。自分でしっかり叱咤しないと、大きな格差が生まれていく時代だと思います。決して年齢を重ねたから老成するとはかぎらず、周囲に諭してくれる人がいるか、いやそもそも自分で学び取っていくことですよね。
徒然なるままに筆を走らせていますとこうして話が散逸しますが、自分のこれまでの人生はもちろんのこと、子どもを育てる際にも、「動物としての勘」を育むことにも注意を払いたいと思うのです。それこそが人間としての賢さを涵養することに関わってくるように思います。
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