「生きる意味は何だと思いますか」というご質問に対する回答
先日お金の相談会で、「生きる意味」に関するご質問がありました。
人によって幸福の定義や価値観はさまざまであり、この質問に対する回答も人によって変わることを前置きしたうえで、ひとつの考え方を記したいと思います。
決意
まず思うに、せっかく奇跡的に生を受けたのだから、「惰性で生きる」とか、「なにかをあきらめて生きる」とか、そういう姿勢でいるならば、生きている意味は著しく薄れるとさえ思います。
すると、「あなたは能力があったり、そういう考えができるからそう思うのでしょうけども、そういう考えができなかったり実力や自信がなければそう思えません。個人差があるのでは」という趣旨の反応もあると思います。
ここでもうひとつ前置きとして、人々に寄り添うことが大切であるという道義的な観点を認識したうえであえて申し上げるならば、個人差だとか考えること自体がみずからの可能性をすでに閉ざしていると申し上げたく思います。
個人差なんてなくて、人間やろうと決意するしかないと思います。それだけで大きな差異が生じる。
たとえば子を持つ母が夫を亡くしたとき、手に職もなければ、お金もない、何もない。そんな状態では、「自分には能力がない」などと言っている暇もなく、「なんとかしなければ」と決意して行動するしかありません。人間、切迫した状況に置かれたら、「布団に入れば数秒で寝た」と述懐するほど、満身創痍で生きることもできるわけです。そこにあるのは、個人差とか能力ではなく、単に「自分で状況を変えよう」という決意がただあるだけ。
ですから、個人差がどうとかではなく、決意の問題。決然と現状を変える、その決意の有無で状況は着実に変わっていく(もちろん万事がそうとは言いません)。
「自分には能力がない」とかはじめから言う人もいますが、能力の有無ほど客観的に測定できないものはないでしょう。その時点ですでに自分の翼をみずから折っている。「能力」より「決意」。
私はいかなる状況でも、どんな逆境でも、「必ず自分で状況を変えてみせる」と決意を新たにします。そうして、どのような逆境にあっても、自分を奮い立たせ、目標や理想に向かって決然と歩を進めてきました。身近な事例で「決意が人生を変える」と身をもって知っているからです。だからこそ、望むものを手に入れることができたのだと思います。能力がどうとかではありません。自分に能力があるかなんて今でもわかりません。
自分にはこれがない、あれがないと考えて、引っ込んでいる人を見ると、「なんてもったいない」と思います。あきらめて、無難な道を進んで、挙句「あとでこうしておけばよかった」と未練がましく言うような人生は、私は絶対に送りたくないのです。1度きりの人生だから。
しんどいときでもぐっとこらえ、さらに決意を固くし、一点をみすえて決然と進む。すると、短期的にはしんどくとも、たいてい後々ご褒美があることは、今までの人生で幾度となく体験しています。
そうした決意ある姿勢で日々を過ごせば、人生は着実に変わっていくと断言できます。さすれば、「決意」こそが生きる意味に答えを与えてくれることが、きっと見えてくるのではないかと思います。
※ by 35歳スーパー無職
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