振り切ることで、「社会的な動物」としての幸福を得る
以下ご質問に回答しています。
題名: 退職後の人生と心持ちについての相談
メッセージ本文:
はじめまして!もう何年も穂高様のブログを読ませて頂いております。書籍も拝読しました。
サラリーマン人生が嫌でなんとか退職できないか種々ブログを読み漁っている時期に穂高様のブログにたどり着きました。
おかげで今の人生があると言っても過言ではありません。
この場を借りてお礼申し上げます。本当にありがとうございます。
お陰様で3年前にいわゆるセミリタイアをし、妻と娘で本当に幸せな毎日を過ごしております。
退職前に読ませて頂いていたFIRE関連のブログで今も読ませて頂いているのは穂高様のブログだけです(正確にはあと一つありますがそちらは主様が数か月に一回の更新なので)。
前置きが長くなり申し訳ございません。
いつも質問したいと思いながらこうしたオンラインでメッセージを送ることも初めてで、これまで一歩踏み出すことができませんでした。
よろしければお教え頂きたいことが2点あります。
不躾で恐縮ですが、ご教示頂けますと幸いです。
1.
先日の「年齢を重ねても衰えない」という記事内にありました、「退職後にストレスがなく」との文言についてです。
もちろん「ストレスがゼロ、一切ない」という意味ではなく厳密にはごくごくわずかという文意かとは拝察しますが、
私の悩みというか不安というか予防線というか以下の仮説を持っております。
「ストレスがゼロに近しい環境に長くいるとストレス耐性が限りなく弱まるのではないか。
その結果、通常であれば気にしないようなストレスに思いがけずさらされただけで
体や心に不調をきたしてしまうほどストレスに対する免疫を失ってはしまわないか。
筋肉などと同じで一定程度の負荷・ストレスを与えることが大事ではないか。」
こうした意識は穂高様にはおありですか?
私も幸いにも現時点では毎日が幸せでほぼストレスがない環境に身を置くことができていますが、人生何が起こるかわからないという前提において、極度にストレスに耐性が弱まってしまうことを恐れ、自らストレスの発生する環境(豚舎)でのアルバイトを(週1回2時間)したりしました。
(この度、「やっぱりこのアルバイトの時間も自由にしたいな」と思い、辞めることにしました、どないやねん笑 それもあってまた悩んでいます。)
穂高様もそうした工夫?のようなものはされているのか、されていたらどのようにしているのかお教え頂けますとすごくうれしいです。
なお、適度なストレスが必要という仮説にいたった根拠として、母が痴呆になった姿を見ていたことも大きく影響しています。
彼女は(他にも様々な要因があることは当然ですが、)常人にはできないほど家でストレスなくのんびり過ごし続けていて、それこそ筋肉も衰え、心も衰え、頭脳も衰えた面はあったのではないかと私は考えています。
2.
穂高様にはいつも見習いたい考え方・姿勢・行動を、発信物を通して頂いています。
その中で私には最近十分にできていないと感じることがあります。
それは穂高様の
- 「FIREして本当によかった 1日1回はそう思う ありがたい」
というものです。
私も元々、周りから「幸せそう」と言われたり、日々の何気ないことに対し幸せを感じ感謝をするタイプのように自己評価しています。実際、サラリーマン時代にも幸せだったし感謝していました。
(もちろん、嫌なこともいっぱいあったし、サラリーマンでは実現できない類の幸せが私には魅力的だったので辞めました。)
そして実際に退職した当初は穂高様と同じく「なんて自分は幸せでありがたい人生を歩ませてもらえてるんだ」と自然に思えました。
でも3年たった最近はその点においての感謝がやや薄れていないかと思っています。
例えば、昨日も天気が良く趣味のテニスに向かう道中の自転車道で自転車をゆったりこぎながら空を見て
「ただ天気を愛でる幸せを噛み締められるって幸せ、サラリーマンやったら天気がいいときに、なんでこんな日に仕事せなあかんねんと思っていたな、ありがたいな」
なんて感じていましたが、私の中ではどこか100%が自然発生的なものではなく、自ら意識的に「自由に対して感謝せなあかんで」と思っているような節がある気がしています。
今もあったかいほうじ茶を飲んでいると炊き立ての白ご飯とお味噌汁、焼き鮭を妻が出してくれてもうこれ以上何がある?ってぐらいの感謝と幸せが勝手に溢れ出しました笑
ただ、「FIREしてよかった」という感情が薄れているように思います。
なんか今の生活が当たり前というか、もう戻りたくないという気持ちは強烈に抱いているのですが、今の立場をしみじみと感謝できていないような感覚です。
しかしその点、穂高様の文章を読ませて頂くと「FIREして本当によかった!」と退職初日と同じ熱量の感謝が自然に溢れ出てきておられる印象を受けます。
これを見習いたい!
抽象的ではありますが、もし私の拙文をお読み頂けて気づいたことがありましたら、この点、何かアドバイスを頂けませんでしょうか。
長くなり申し訳ございません。
まだまだお聞きしたいことはいっぱいあるし、なんだったら一緒に温泉でもつかりながら、
その後はビール片手に、ゆったりとお話させて頂きたいですが、今私が気になることを相談させて頂きました。
何卒、よろしくお願いいたします。
昨日の記事
の続きです。
FIREしてからの「感謝」とは
例えば、昨日も天気が良く趣味のテニスに向かう道中の自転車道で自転車をゆったりこぎながら空を見て
「ただ天気を愛でる幸せを噛み締められるって幸せ、サラリーマンやったら天気がいいときに、なんでこんな日に仕事せなあかんねんと思っていたな、ありがたいな」
なんて感じていましたが、私の中ではどこか100%が自然発生的なものではなく、自ら意識的に「自由に対して感謝せなあかんで」と思っているような節がある気がしています。
たしかに「あるものへの感謝」というものは大切である一方で、無理やりそう思うのもおかしな話ですよね。
たとえば人間の心理反応として、不遇の時を過ごしている状態で「あれもこれもありがたいな」と無理やり感謝することは、単に自分の現況を直視せず目を背けるだけになってしまいます。それはなんか違いますよね。
自然に湧き出る感情に素直であってよいかと私は思います。きちんと要所さえ押さえていれば。
「社会的な動物」が満たされるためには
今もあったかいほうじ茶を飲んでいると炊き立ての白ご飯とお味噌汁、焼き鮭を妻が出してくれてもうこれ以上何がある?ってぐらいの感謝と幸せが勝手に溢れ出しました笑
ただ、「FIREしてよかった」という感情が薄れているように思います。
なんか今の生活が当たり前というか、もう戻りたくないという気持ちは強烈に抱いているのですが、今の立場をしみじみと感謝できていないような感覚です。
やっぱり家族や愛する人、共鳴する人の存在は大きいですよね。共鳴する人と本能を満たせば、およそ幸せになれると思います。
その意味では、文面のみからの推量にすぎませんが、
- 社会的な欲求など種々の本能を満たしたり、
- 自分を叱咤してより高みをめざしたくなる対象を見つける、
- または夢中になれる対象を見つけられれば、
「FIREしてよかった」という感情は薄れることなく、常に強くありつづけるはずです。
結局人間は「社会的な動物」だと実感しています。社会的な動物としての素直な需要を満たせば、幸福度は否が応でも高まることはほぼ間違いないと思います。
ただしそこで障壁になってくるのは、「こうあるべき」という常識や社会通念などです。だいたいこの手の無意識の通念によって、自縄自縛になり、身動きがとれず、心が本来求めることと異なる行動に至った結果、「なぜかよくわからないけど満たされない」状態になりがちだと思います。
振り切る
自分と周囲を見ていて思うのは、とかく人生において「振り切る」ことが幸福を得るうえで大事だと思います。
結局、中途半端ではつまらない。やるならとことんやる。やるからには頂点を獲る勢いと熱量。
そうやって私は全てを得ようとして、そして実際にほぼ全てを得てきた人生だと言えます。
FIREした後も同じです。徹底的にやる。でも夢中になれる対象じゃないと振り切れないですよね。なので、手数を増やして片っ端から手を出す。その際も全力で振り切ってやっていく。
さすれば、きっと自分なりの幸福の「型」が見えてくるのではないでしょうか。
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