心労こそが、往々にして「転機」を生む
先日、外資系の企業に勤める友人と話していました。
彼は最近、外国人の上司から、前夜に
上司
と不条理なかたちで依頼があったそうです。
とくに冷徹な国際社会では、虚勢を張ってでも毅然とした態度をとらなければ、過小評価されることもありますから、決然と抗弁したそうです。私も外国では同じ行動をとると思います。
すると上司は「たしかに君の言う通りで、ぼくに落ち度があってこのタイミングになったが、これが組織なんだ、次から気を付けるよ」との言があり、臥薪嘗胆を期して渋々応じたそうです(だいぶ表現をやわらかくしています)。
しかしこの件を受け、彼は心労を感じつつ、そこではたと気づいたのです。
友人
この感覚は、私のFIREを後押した出来事と酷似しています。FIREするタイミングを決めた要素のひとつは、病みそうな後輩を助けるべくパワハラ上司と徹底的にやり合ったことです。
最初は平気なつもりでしたが、やはり心労は蓄積されており、しかしその心労があったおかげで、
穂高 唯希
と感じ、そして決断の背中を押してもらえたようなものです。つまり素晴らしい転機になったのです。ですから、今となってはその心労が転機となったとも言え、今ではむしろ、ある意味で感謝さえしています。
このことを友人に伝えると、友人も妙に納得していました。たしかに自分の状況もその通りだ、と。自分の気持ちは誤魔化せないな、と。
私も1日もはやく自由になりたい、その気持ちはひとときも誤魔化せず、心労が転機となりました。友人も、
友人
不動産投資でFIREした友人も、
友人
心労(ストレス)はたしかにできることなら避けたいことですが、避けられないこともあります。そして心労はこのように往々にして人生の転機となるわけですね。
ですから私は心労は、できるだけ前向きにとらえようとしています。もちろんケースバイケースで臨界点を突破する前に状況は変える必要があります。
しかし心労こそが、切迫感と主体性をともなった行動のきっかけとなることはよくあり、そしてその行動が自分の人生の転機となったことは幾度もあると実体験として断言できます。否が応でも方策を考えるからですよね。
ですから、もしいまなにか通ずる状況に置かれているかたがいらっしゃれば、一応こんな視点もあるということで、ひとつご高覧いただければ幸いです。
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