宗教国家アメリカから見える分断、人間の深淵
宗教国家としてのアメリカを分析する書籍をいくつか読んでいます。
宗教というのは人や国家を論じるうえで欠かせない視点だとあらためて思いますね。
新刊『#シンFIRE論』でも宗教について軽く触れました。
友人のシンガポール人はクリスマスに教会に行き、ルームメイトの韓国人は毎週日曜午前中に教会の礼拝に参加していました。彼はよく聖書を読んでいました。
興味深いのは、キリスト教のなかにも多くの宗派があり、聖句(聖書に記されている文章)の解釈が宗派によって正反対に異なるということです。
日本の憲法解釈を想像するとわかりやすいかもしれませんが、聖書というものも似たようなところがあって、読む人によって解釈が分かれるうえに、宗派ごとに都合のよいように解釈できてしまう側面があります。
簡易的にたとえると、聖書に「神は私たちに生を与えた」という記載があったとします。
すると、宗派によって以下のように正反対の解釈が生まれてしまうといったことが現実に起きています。
- 神が生を決めたのだから、人間が死刑などで生死を分けるのはおかしい
- 神は生を与えたが死を決めるとは言っていないので、人間が死刑という極刑を決めるのは問題ない
このように聖書の解釈によって賛否が分かれるのは死刑の是非だけでなく、気候変動問題・ワクチン接種などでも分断を生む要因になっていると。
トランプ政権以降、米国の分断が報道されるようになりましたが、むしろよくこれだけ多様な宗派に分かれているにもかかわらずこれまで国体を成していたなと思うほどですね。
カトリック、プロテスタントといった大きな宗派のちがいからさらに細分化され、福音派、バプティスト、メソジストなどがあります。むろんキリスト教だけでなく、モルモン(これをキリスト教の一派に含めるのかは議論が分かれますが)、ヒンドゥー、イスラム、仏教などなど。
なぜアメリカが世界の警察と自認または標榜してきたか。
この理由は宗教という視点から分析すると納得がいきます。アメリカが領土的野心を持って太平洋を飛び越えてフィリピンまで西進してきた歴史の背景に、宗教的に「選民意識が強い」ことが背景にあると考えると非常に納得がいきます。
進化論と創造論の対立。これも興味深いですね。いまもダーウィンの進化論を真向から否定する一派が博物館や学校の教育現場で創造論を教えるように運動するなど、宗教保守派の存在感が指摘されています。
アーミッシュというキリスト教から見れば異教徒の人々の自然に根差した生活も興味深いところです。
日本では無神論者がおそらく一般的かと思いますが、米国はむしろ無神論者は忌避される傾向にあるようです。
とりとめなくざっと書きましたが、宗教というのは日本では日常に密接しないものですが、宗教的背景への理解は海外の人と接するうえで必要な「言語」にもなるものだと考えています。
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