ロシアのウクライナ侵攻で日本人として考えたいこと

Twitter

ロシアのウクライナ侵攻で日本人として考えたいこと

現時点で表題の件で思うことは、「NATO(西側諸国)はウクライナに派兵しないか…」ということです。

これはある意味で象徴的な出来事ですよね。あらためて現実を突きつけられたと感じた日本の方々もいらっしゃるのではないでしょうか。

物資や兵器などの物理的な支援はしても、結局最前線で戦うのはウクライナ軍であり、ウクライナ民兵であり、犠牲になっているのはそれらに加えてウクライナの民間の方々ということになっています(メディアの報道にもとづくという前提下では)。

現在のウクライナのゼレンスキー政権はNATO加盟をめざす親西側政権であっても、欧米は派兵まではしない。物理的な交戦があっても派兵まではしない。いくらウクライナから要請されても派兵まではしていないという状況のようです。

第三国への派兵は、国家にとって相応のハードルがあると考えられます。派兵というのは、自国民である自国の軍隊を危険にさらし、国民の税金を使うことを意味するわけですから、相応の妥当な理由や、利害関係が相当深くないかぎり、民主主義国家ではそもそも国民が納得しづらくなりますし、そうすれば民主主義に基づく選挙があるかぎり政権にとってはなおさら派兵のインセンティブが生じにくいことが想像されます。

米国は「ロシアが今にも侵攻する」とある意味で煽った挙句、交戦となっても派兵はしていない。EUも、諸外国はロシアとの貿易関係の緊密さや利害関係は当然一致するはずがないですから、足並みもそろいにくいことは容易に想像されます。

よほどなにか共通の大いなる脅威であったり、共通の利害や差し迫った状況でないかぎり、あるいは大量の難民が生じてそれによる弊害が自国で考えられる等の状況でないかぎり、速やかに派兵することはプロセスとして相当ハードルが高いと考えられます。

この「よほどのことがないかぎり、国家は第三国に派兵しない」というある意味で当たり前の事象が今回日本人に突き付けられているのではないでしょうか。

つまりおそらく「日米安全保障条約がある、米軍がいざとなれば守ってくれる(ひいては日本は憲法が守ってくれる)」と考える日本人も一定数いると思います。

しかしはたして本当にそうでしょうか。確かに条約はあります。日本が攻撃されれば米軍が守る義務があるとされています。しかし守る内容というのは、どこまでやるでしょうか。表面的な形式上の支援にとどまる可能性だって十分考えられます。のっぴきならない事情で支援しない可能性だって十分あるでしょう。「米軍は物資や補給等の後方支援のみで、最前線で戦うのはあくまで自衛隊、血を流すのはあくまで自衛隊や日本国民」である可能性は当然かんがえられます。

そもそも安保条約も、日本国民のことを考えているから結ぶわけでは当然なく、米国にとって地理的な要衝であったり、当時反共の防波堤であったり、相応のなんらかのメリットがあるからこそ結ぶわけで、そのような冷徹な利害分析にもとづいているわけで、あくまで自国民最優先です。

国と国の外交というのは、あくまで主としては冷徹な利害関係の上に成り立ってきたことは歴史が示唆しています。性善説にもとづく楽観論は、外交や軍事では禁物だと思います。なぜならば、いざテールリスクが生じた時に脆すぎるからです。「それは想定外だった」と言って国や民族が滅びればそれら人々にとってあまりに悲しい現実です。

ウクライナ人へのインタビューで開戦一週間前まで、住民や警官は「ウクライナは100%安全だよ」「ロシアが攻めてくる?まさか」と答えている様子が大手メディアで流れていました。そのまさか、が起きるのが世界情勢なんですよね、悲しいことに。

日本も「日本は治安がよく、100%戦争は起きないよ」「いざとなれば米軍がいるし、大丈夫」と楽観的に語っている様子が、なんらかの有事の後に外国で放映される可能性だってゼロではありません。

先日のコラムにも記しましたが、やはり国防という国家的中枢機能を第三者に依存するという状況は、あまりに厳しすぎる現状だと私は思います。いざ国家的緊急事態になった時に主体性が欠けてしまうというのは、ひとつの国にとって、国民にとって、あまりに脆弱な体制でしょう。

今まで平和という霞の上に数十年あったので、あまり考えなくてもなんとかなってきた、避けることができてきたのかもしれません。しかし平和というのは国家間の利害がたまたま上手くいき、偶発的な事象が起きなかったという霞の上に存在していると思います。歴史を学べば学ほどそう思います。

構造的な受動性というのは、思考停止や考えることの放棄につながりやすくなるでしょう。目に見えない「ブラックボックス」が存在してしまうからです。つまり、米軍という同盟国の軍が存在することで、実際に戦争が起きた時に、第三者の意思決定が介在することになるので、実際にどのように米軍が動き、どこまで支援され、どこまで前線で戦うのかが見えないですよね。自国の軍であれば、制度に基づいて内閣総理大臣の指揮で主体的に動かせるわけですが、第三国の軍がいるかぎり、そこが見えない。そこが見えないと、不確定要素は大きくなり、いわゆるブラックボックスが存在することになるため、変数が増えることになると考えられます。

ゆえに国家的な中枢機能を他国にゆだねるという構造的な受動性というのは、繰り返しながら非常に難しいと思うのです。

日本が民主主義国家である以上、政治家はもちろんですが、政治家を選出し、主権を持つ国民ひとりひとりが真剣に考えるべき事柄だと思います。

新刊「#シンFIRE論 経済・精神の自由を手に入れる主体的思考法」
騒がしすぎる世界で、「主体的」であれ
スポンサーリンク

にほんブログ村 株ブログ 米国株へ

外国株式ブログランキング

Follow me by FREETONSHA

公開日: