入社当日に違和感を感じた象徴的なエピソードとは
本記事は、ある有名大学の方から「卒業論文の制作のために私にインタビューしたい」という依頼に基づいてブログでその回答としてまとめています。
大学生
本記事はその問いへの回答の一環でもあり、各種メディアからも時に聞かれることなので、ブログでまとめておきます。
「調和」という不文律
先日、2021年のノーベル物理学賞の受賞者「米プリンストン大学の真鍋淑郎・上席研究員」が記者会見でこんな言葉を残しました。
私が日本に戻りたくないのは「調和」の中で生きることはできないから――。
これは日本の特性を表す、大変に示唆に富んだ表現です。特に海外経験がある人は、この「調和」というものの功罪が想像しやすいはずです。
まず会社には感謝していますし、批判する目的で記したものではないことを念のため申し添えた上で、私のエピソードを挙げます。
一例としてのエピソード
たとえばなんでもよいですが、会社員になると労働組合という組織が存在します。9割方、新入社員は入るでしょう。
労働者には団結の権利がみとめられています。労働組合に入って団結し、会社と適切に利害を調整する際に機能的で意義のある組織です。
では一例として、その労働組合なりなんらかの団体が新入社員に同団体への加入を勧誘するとします。そこで起きた現象は端的に言うと以下の通りです。
- 周囲
すんなり加入(みんなが入るから? そういうものだから? etc..) - 私
加入する目的・意義・理由を知りたい。それらに納得してから主体的に意思決定をしたい。
この対照的な反応を周囲が見せた時点で、私はまずちょっとした違和感を感じました。
団体へ加入すれば、時間とお金も使う性質のところです。
なにかを決める際に、「まわりがやっているから」というのは私の中では理由になり得ないです。本質的な理由にはなり得ないからです。不具合が生じたときに責任の所在を自分ではなく他者に向けてしまう可能性も生じてしまいます。
まわりと調和して責任を連帯するということは、同時に責任の所在があいまいになることを意味すると私は思います。
もしかすると、海外留学をしていなければ、違和感は感じずにそのまま加入していたかもしれません。加入する意義・目的などの本質的な説明はなかったと記憶していますが、周囲はそのまますんなりと加入していました。団体としては「あれ、なぜ入らないの。まだ申請を出していないのは穂高くんだけだよ」と。結局私も摩擦を避け、加入しました。しかし違和感は残りました。
この一件は、日本における集団論理がよくもわるくも凝縮されているように思います。これが一例としてのエピソードとして挙げられると思います。
和を以て貴しとなす文化は素晴らしい。一方で、行き過ぎると同質性を強いることになり得る。
日本は「和を以て貴しとなす」文化でしょう。和を重んじることは大変素敵なことです。
災害の時でも、日本の人々は整然と列をなして配給物資を待てる国民性です。自分のことだけでなく、周囲のことも考えられる人が多い素晴らしい国民性だと私は思います。これは「調和」がなせる素晴らしい一面でしょう。
一方で、調和とは、時に、暗に同質性を強要することになりかねません。上の一例で言えば、もし幾人かが団体へ加入しないよりも全員加入した方が「調和的」です。一糸乱れぬ団結といった感じも生まれるでしょう。
しかし調和を重んじすぎると、「集団の論理を個人が無思考・無批判に受け入れることを強いる」可能性も生じます。調和も行き過ぎると、負の側面が顕在化してくると私は思います。旧日本陸軍の「数字さえ合っていれば過程の正誤は問わない」という員数主義はその極致でしょう。
何事もバランスが必要ですね。表があれば裏があります。よい面とわるい面は表裏一体です。調和もそのひとつでしょう。行き過ぎると裏の面が出てきてしまうのです。
優秀な友人たちを見ていると、特定の面で秀でた人は個性も強い(ただし自分勝手という意味ではない)傾向がみられます。そういう人ほど、「行き過ぎた調和」とは距離を置きます。そういう人ほど組織から抜けているのを目の当たりにしています。この現象は日本という国にとって損失になるかもしれない、と時に思ったりもします。
Best wishes to everyone.
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