映画「めがね」、日々を忙しく生きる人こそ、一見の価値ある映画
情報社会である現代、
- 日々を忙しく生きている
- 主体的に沈思黙考する時間を設けることを忘れかけている
こういった人々は、近代より増えているのではないでしょうか。
そういった方々には特に、本作を通して感じるものを見いだせるかもしれません。
本作は一貫して牧歌的です。南の島の民宿が舞台で、ドキドキハラハラといった要素はなく、穏やかに見れる映画でもあります。
そして、現代の忙(せわ)しなさを、それとなく柔らかく風刺する、そんな要素も見いだせると思います。
あるひとりの都会人
仮に地域性によって人々を大別するのであれば、以下区分けが一応可能と思います。
- 都会人
- 田舎人
作中の小林聡美さん演じる主人公こそ、まさにクラシックな都会の勤め人のように、私には映りました。作者も「典型的な都会人」を意図して描いた人物なのではないでしょうか。(もちろん、よいわるいという皮相的な意味ではなく)
- 余白や黄昏を楽しめない、
- 旅行は観光ありき、
- 何事もきっちりしていて、
- 何事も目的意識に似たものがあって、
- 田舎特有の言語化できない時の流れに対して、理路整然と言及または疑義を唱える
ここの人は、なにをしているんですか? → 「黄昏れ」
主人公
小林聡美さん演じる主人公は田舎の宿屋の主人にそう問います。それに対して主人は一考のち「黄昏る」という趣旨の口上を述べます。
作中の主人公は、最初は
主人公
という受け止めですが、徐々にその意味を理解していきます。
夕陽を見た時に、黄昏るの??
どういうときに黄昏ますか?という地元の人の問いに対し、主人公は
主人公
その回答に対し、
地元の若者
と地元の若い人が苦笑します。
黄昏るとは、「夕陽があるから黄昏る」という、そういう黄昏ではないことを暗示しています。
「夕陽があるから黄昏る」という論理展開は、いかにも頭で考えだした展開というか、既に黄昏れありきというか、既に頭で考えたことありきというか、そんな感じがしませんか。
言うならば、「自然発生的でない黄昏れ」というか、もっというと「内発的な動機付けによって導き出された【黄昏る】という行動ではない」と思いませんか。
黄昏れとは、つまりは「余白」
人生は黄昏れるようなものなのでしょうか。夕日があるから黄昏るのではなく、黄昏る時間もやはり必要ということでしょう。つまり、「余白」ですよね。
「余白」というのは、大切にしたいものです。特にFIREしてからそう感じます。経済的・精神的・時間的な余白というのは、着想をも向上させるものだと感じています。
作者から「これぐらいゆっくりでもいいんじゃないかい」と問いかけられているような作品です。
- 島に来たい時に来て、
- 寝たい時に寝て、
- 食べたい時に食べて、
- ややヘンテコな体操をして、
- やりたいことをやって、
- ふらっと来てふらっと帰る
でもそれって、実は尊いことでもあるんですよね。
もたいまさこさんが演じる「ふらっと来てふらっと帰る人」が、作中には登場します。
その人はよく急に店をたたんでいなくなるわけですが、それは「元の世界に戻っただけ」かもしれないのです。その方が普段なにをしているのかは明瞭に描写されません。
ふらっと自由に来るけど、でもそれはずっとじゃない。ふらっと来る島での時間は大事な時間で、だからこそ尊いのかもしれない。
梅はその日の、難逃れ
もうひとつ、印象的なフレーズを。
「梅はその日の、難逃れ」
作中に何度か出てきます。
朝食のシーンで梅干しが必ず食卓にのっていて、梅干しをつまんで「梅はその日の難逃れ」と呟きながら毎回パクッと食べるのです。
これがなんかいいんですよね。
私も早速、今朝は梅干しを食べました。この映画を観て以来、なぜかはわかりませんが、よく梅干しを食べてます 笑
Best wishes to everyone.
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映画は、多様なことが見いだせる対象だと思います。その数は、年齢・経験量や感受性に比例するのかもしれないですね。
最近の個人的ヒットは、「ヒルビリーエレジー」です。こちらもNetflixで観れます。
自由に生きつつも、その反面にある大切や尊さも忘れないようにしたいですね。